「土と腸」三保製薬研究所物語(三)
── 農業技師として
● 一口にいえば、当時の百姓というものから、素晴らしい農民はできない。若い者がいやになる。僕でさえいやになったので、技術者の生活に入ろうとした。お父さんにしたって、お兄さんにしたって、百姓じゃ、やりきれないというものがあった。
○ そう思ったのは、仕事がたいへんだという事と、学校で勉強したということもあるのでないでしょうか。
● それもある。でも、体を動かすことが楽しみであればやれたよ。余りきついから、これじゃやりきれない。しかし、そういう仕事をしてきたから、地方の指導員、技術員の仕事をした時に、それが生きてきた。農民の気持ちというものが判る。何でもやってみなければダメだな。お蚕のことがわかり、お茶のことがわかる。そんな技術者は仲々いないからね。
○ その仕事はどのくらいつづけられたのでしょうか。
● 三年半ぐらいだ。その後は、大分県の臼杵へ行った。興津農業試験場の場長の熊谷さんから、「お前は九州に行け。大分だ。」と言われた。山本タツオという男爵がいて、農林大臣をやった人だが、臼杵町にいた。そこへ行けと言われた。熊谷先生が言うからには、行かないわけにはいかないから、ひとつ行ってやれというのが始まりだ。
○ お父さんが善く許しましたね。
● 次男坊をいつまでも家においておくわけにもいかないし、ただ働かせるだけというわけにもいかないと考えたのだろう。働かせる以上は、始末していかなければならない。人間として、生活の全てについて。大分に行く時に、五〇円の資金を仕度してくれた。臼杵へ赴任する時は、市川金蔵という人とお父さんと二人で臼杵町まで送ってくれた。農業指導員としての生活はこうして始まった。
○ 人生を決定づけるような、大きな選択であり、仕事ともなるわけですね。ところで、臼杵へ行かれたのはいくつの時だったのでしょうか。
● 二五〜二六才、いや二三〜二四才だったかもしれない。大分には七年いた。臼杵駅のすぐそばの、ちょっとした高台に、山本さんの別荘があった。そこで一人で暮らしはじめた。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月4日