「土と腸」三保製薬研究所物語(五)
── 臼杵時代の想い出(つづき)
● 大分の臼杵に行ったのは、勉強というより、農業技師として行った。臼杵の山本義人という人に引っ張られた。この人は、山本農林大臣の甥か何かになる人だが、興津農業試験場の熊谷先生を通じて引っ張られたのがはじまりだ。そういう人が、そこに存在したがために僕は引っ張られた。矢張り、そこに何かやることがあるよ。臼杵は第二のふるさと。清水には帰るつもりはなかった。むこうで駄目になるつもりでいった。興津の学校を出ただけだから、農業技師になるわけだ。それでも、終わる頃になると年棒をもらうようになった。
大分に行って、ここならいいなと思ったのは、静岡県の働き方とは違うことだった。お昼を食べる前に、途中で一度、お茶を飲む時間があった。お昼を食べる時は、足を洗って、畳の上の人間になって、ゆっくりとお昼を食べるというのが大分の百姓だった。こっちでは、足を洗って座敷にあがるというバカなことはできない。それで息ができたよ。こういう百姓でなければ、という事を考えたな。だから、大分のミカンづくりというのは、そういうつくり方をした。
静岡のこの付近の農家のやり方というものは、やたら複雑しとった。山が深く、大きな山であること、お茶があり、ミカンがあり、タケノコがあり、養蚕があった。古い人ならなんでもないが、こっちは若僧で、正直なところウンザリしちゃったよ。その代わりに、短期間のうちに、いろいろな事を憶えたよ。大分に行って、農家の人々といろいろ話ししても遜色はなかった。ミカンのつくり方はどうやら判っても、梨などについては、こまかいところはいちいち判らない。書物を出して勉強するぐらいのことだが、それでも読めば、パッと頭に入った。それで、梨づくりの話し相手になった。
まあ、そんな百姓から始まったんだよ。静岡の百姓が重労働をやったということ、それは何であるかというと、お茶、ミカン、タケノコあり、養蚕ありで、何種類ものつくりものがあった。それをみんな農家が取り込んじゃったということだ。ちゃんと考えていけば、そんなことにはならないはずだが。
そうこうしているうちに七年経ち、こっちへ呼び戻された。もう一年しょぼしょぼしていたら、結婚して向こうの人間になっていた。そんな時、広瀬のお父さんから、帰らないかと言われた。これは、右へ行くか、左へ行くかの大きな境目だった。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月6日