「土と腸」三保製薬研究所物語(六)
── 人生の転回
○ 清水に呼び戻されたという事はどういうわけがあったのでしょうか。
● 結婚というものが主体になっている。こちらで結婚しなければ、大分で独立してやる、ということがあったのだが、いつの間にか、だんだん解消されて変なことになった。しかし、どこで働くのも同じだからね。働くというよりも、生きがいのためにどうして動くか、ということだ。
当時、僕にとっての生きがいというものは二つあった。その一つは、花澤てると一緒になるということだった。もう一つは、静岡で自分の天地というものを開拓しなくてはならない。これは相当な、一代にとって大きな変革だよ。大分で暮らしてしまおう。大分の人間になろう。大分で頭を上げようという野心で七年過したあとのことで、天地を変えたから、これは大きいよ。
── 柑橘同業組合の農業技師として再出発
○ 清水に戻ってからの仕事は、どういうものだったでしょうか。
● 庵原郡・清水市柑橘同業組合の技師であった。大きな団体の仕事だから、個人的な考えを持っていたらできない。自分の腕で、頭で、どうして公共性を持った仕事で活躍できるかをもっぱら考えた。大分でもそうであったが、個人的な考えはないわけではないが、それが主体であろうけれども、少ないものだった。その点は、今の同じ年令の人たちと比較して、僕の当時の考えはどうだろう。ちょっと違っていたかもしれないな。
何故、そういうことになったのかということを今にして考えると、これは広瀬の実父、母、兄の存在というものが非常に大きい。また、どうしてそういう方向に進んだのかを思い起こしてみると、一つのことに思い当たる。それは、夜分に講演会があった。講師は中山金作という人で、僕の先輩だ。志太郡藤枝町(現在の藤枝市)の人だ。あと一人は、庵原村の農協にいた小西吉之助という人であった。
二人の講演を聞きつつ、ひそかに思うことは、百姓といっても、クワやカマを持って農業をするという、そんな単純なものではない。ことに、これから柑橘業のこと、その他農業の指導者として立とうとするのだから、個人的な考えよりも公共性をもったものを、という考え方でやっていこうとひそかに考えた。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月8日