往時雑感
“真夏雑感”
一九八四年の夏は、酷暑の中のオリンピックと高校野球で終わろうとしている。クーラーとテレビはつけたまま。電力需要はウナギのぼりとか。膨大なる消費。「消費は美徳」という時代は終わったというのに。
“「頑張り」と「リラックス」”
「アメリカでは選手を励ますのによく、リラックスという言葉を使う。日本は『頑張れ』である。…頑張れ頑張れと励ましているつもりで、実は選手たちに重い足かせをつける作業に力を合わせている」(1984年7月10日 朝日新聞)
頑張れと言われても、これ以上何をどう頑張るのか。日本的「頑張り主義」には、前近代的な精神主義のにおいを感じさせる。
「これはあるプロ野球の選手ですが、高校野球で大活躍した投手です。…少年時代からの野球のせいと考えられます。ヒジの軟骨がえぐられている。つまり、関節軟骨の一部が死んで代謝機能を失い、遊離体になってしまった。骨関節の発育期に変化球を投げすぎた結果です。」(1984年8月27日 朝日新聞 野球・未熟な健康管理)
関節障害だけですめばよい。「タンパク尿が75%の選手にみられ、腎臓結石や痛風の原因になる酸性尿も同様。老廃物が蓄積される高比重尿も71%に達します。」(1984年8月27日 朝日新聞 野球・未熟な健康管理)
サッカーの場合も同様の問題が起きている。勝つための技術が優先する練習と過酷な頑張り主義によって成長期の青少年のヒザ関節障害が起きているという。
“楽しみのないスポーツ”
スポーツから楽しむという要素を抜いたら何が残るであろうか。
「ウインブルドン男子シングルスで優勝したマッケンローは、試合後『楽しみながら試合が出来た』と言ったそうだ。女子で優勝したナブラチロワも『私はテニスは楽しいから試合をしている』と語っていた」(1984年 7月10日 朝日新聞・天声人語)
筋肉増強剤の飲用は、オリンピック選手の公然の事実である。しかし、その薬剤の副作用によって、選手生命のみならず、生命さえ犠牲にしていることも、隠された事実なのだ。
“勝つことは善ではない”
勝利至上主義はスポーツ界の特権ではない。企業社会や教育の世界に至るまで、その名に隠された競争原理に支配されている。勝利という結果、果てぬ未来のために、現在は黙認(ガマン)される。現在を制するものは「管理」である。管理という名の統制の前には全てがむなしく見える。それは、何ものをも生み出すことのない膨大な消耗でもあるのだが。(S)
── 母親として夏休みを考える
“子供にとって夏休みとは”
とりわけ猛暑の続いた今年の夏、中学生になった娘の初めての夏休みも、もう終わろうとしている。それぞれの教科の課題に追われながら、なんとか形だけでも、消化しなければと懸命である。
“コンクールのための練習”
娘の部活動は吹奏楽部。何か一つ楽器を自分のものにできたらと選んだクラブである。学校では、部活動の基本的なとらえ方としては、教師と生徒及び生徒相互の結びつきを強め、身体的な健康はもとより、精神的な健康を助長することを目的としている。部活動の教育的価値は高く全人的な人間形成の上での役割は大きい。人間的ふれあいを基盤に、厳しさに耐えるたくましい心身の発達を助長し、さらに目的に向かって全力投球できるような意欲に満ちた生徒の育成を図るとうたわれているが、朝の七時からの朝練にはじまって、弁当持参での夕方六時すぎまでの練習が、日曜日もなしにコンクール当日まで続いた。昨年までは、プール通い、お菓子づくり、三重県での二週間の合宿での仲良しになる勉強と長い夏休みでなければできない、ゆったりとした時間、自分自身をみつめるゆとりがあったような気がした。
“夏休みってなんだろう”
コンクールでの地区大会では金賞、次の中部大会では銅賞(金賞しか予選は通過できない)、ひたすらコンクールのために、学校の名誉のためにだけやらされてきた子供にとって「やらされた」ものとなり、子供自身の力で「やった」との思いがない限り、子供にとってこれほど残酷なことはない。
娘自身の口から、このままで私は育つのかしら。何かに追いまくられてしまっていて、私にとって夏休みってなんだったろうか。と言われたとき、私自身も、子供の内部に起こっていることを見通し、子供の個性をみつめ、子供の可能性をゆっくりと育ててあげるゆとりを持つべく、自分自身を見つめ直す夏休みにしたかったと反省しきりでした。(M)
編集後記
▶︎酷暑、猛暑、極暑。今年の夏はどの言葉で表現しても物足りない。
▶︎「風鈴」「簾」「団扇」は日本の夏を代表するものである。しかし、簾ごしにみえる風景や、そよと吹く風にも響いてみせた風鈴の情緒は今はない。
▶︎閉じられた部屋のクーラーが、今は主流である。生活の知恵が文明の利器にとって替えられて久しい。暑さを凌ぐ知恵を考え直したい夏であった。(S)
第8号 1984年8月20日