「土と腸」三保製薬研究所物語(二)
──創業者 花澤政雄の略歴
明治三五年庵原郡庵原村広瀬(現在は静岡市清水区)の農家に生まれる。
磐田の中泉農学校を大正六年に卒業すると、農林省興津園芸試験場に就職。
恩師のすすめで、大分の臼杵町農会に、農業技師として着任。北海部(あまべ)郡農会を経てのち、清水にもどる。
昭和三年、庵原郡清水市柑橘同業組合で機械油乳剤、昭和八年には石灰硫黄合剤の製造に着手。みかん農家のために、を心がける。
昭和三〇年から七年間、静岡県柑橘農業連合会で、農業指導をする。
その間の昭和二八年に、西勝造先生のすすめで、「スイマグ」の製造を開始し今日に至る。
尚、西式健康法普及活動は、三〇歳頃より始めている。
何事についても、「良くなる、能くなる、善くなる」を信条としている。
── 農学校時代の想い出
●磐田農学校での生活のよさは、いろいろあるけれども、全寮制であったことだ。寄宿生活がすばらしくよかった。その生活の想い出は大きい。
○学校というと、バンカラな気風というようなものがありますが、どうでしたか。
●高下駄の厚いものを履いて、カラカラ歩くというようなことはなかった。そんな服装をしたら、細田校長の目がきついからこの校長に睨まれたら、どうしようもない。学校の規模や、設備が非常に広く大きかった。お蚕の産室があり、牛や馬やニワトリを飼う。お茶の製造ができる。園芸から蔬菜(そさい)、お米など、作物全般のものをやった。農業の基礎的なことをやった。その点が非常によかった。磐田農学校の建物、実習地は全部、学校の専用の土地になっていて、実に広い。実習地は、福田(ふくで)にあった。そこまでバスで往復した。二〇町歩ぐらいあるだろう。水田から、畜産から、全部そこでやる。加工までできた。
○卒業するときには、どういうことをやりたいか考えましたか。
●農業をやることだけを考えた。ところが、実際農業をやってみると楽ではない。今では機械化しているからいいんだけれども、当時の農業というのは、本当に体をぶっつけての重労働だ。重労働でなければ、食っていけなかった。それを学校を出てすぐにあたった。これは楽なものではなかった。ミカン、お茶、養蚕、全部やった。養蚕の時は、朝、お蚕さんをやる。お茶の時は、製茶の機械の仕事、手もみ、ひと通りのことをやる。二町何反かの土地に、お父さん、お兄さん、そして二人ぐらいの人を入れていた。つい先日、亡くなってしまったが、山本秀松といっしょにやった。彼は小僧の時分に、百姓仕事をはじめた。むこうは慣れているから、草刈りから、茶摘み、お茶の運搬などはうまいものだった。今でも思い起こすのは、雨の日に茶を刈り、カゴに詰めて家に運ぶのだが、距離がある。道が滑るようなところをヨチヨチ担いで運ぶ。余り重かったので、計ってみたら、二五・六貫あった。今のキロ数でいうと、一〇〇キロ近くあったわけだ。そういうものを担いでやる百姓だから楽ではない。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月4日