「土と腸」三保製薬研究所物語(一)
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- 磐田農校に入ったのは大正八・九年ですね。その農学校で、二食をやっていた金沢光済先生に出会った。その頃のお話しからお願いします。
- 先生から植物学を教わった。当時の学問としては普通の学問だった。先生は見付の出身で、高等女学校の校長であった。学問の内容では特に変わったことはなかったが、僕は人間としての魅力にひかれた。
- なかでも食べ方である。朝御飯を食べない。今、先生の気持ちをいろいろと考えてみると、学問的のものはなかった。唯、自分の経験上で、そう言っていたはずだ。僕は、尊敬する先生が実行されている事だから、信じ、早速実行した。
- 金沢先生は学生にやりなさい、という様な事を仰有ったんですか。
- そういう事は言わなかった。真先にやったのは、僕だ、他の学生はほとんどやらなかった。
磐田農学校を卒業し、広瀬に戻って百姓をやったが、朝早く起き、朝食を食べずにきつい仕事に耐えてきた。お腹が空いて、ふかふかだった。夕方、家へ帰って来ると、真先に食べたいという事だけだった。そういう生活から始まった。
二食が何故良いか、という事は、その後、西医学の研究をやってはじめて判ってきた。学問的に。夜分は絶食だから、朝食は絶食後の食べものということになる。(※英語のBreakfastは、文字通り「断食をやめる」の意。)朝食を食べるなら、お昼より丁寧に噛むとか、お粥にするとか、そういう食べ方があるはずだ。そのあたりをだんだん知るようになり、二食が継続されている訳だ。
- 体験したものが、学問的に裏打ちされたから自信がもてたということですね。
- だから、単なる物好きだけではない。最初は、金沢先生を信頼した。先生がやっていいな、ということだから、これはいいはずだ、学問云々という話ではない。
- 信頼できる先生がおられたという事は、幸せですね。つき従うことのできる先生の存在という事は、人生の上で大きな意味をもつ訳ですね。
- 磐田農学校には、信頼できる先生が何人もいた。細田校長はその最たるものだ。細田校長を慕って、何人もの有名な先生がそばにいた。磐田農学校の卒業生は、愛知県から、静岡県は全般にわたっていた。伊豆、安倍、志太、三ケ日などで、その中には、ミカンの有名な生産地もある。僕には、それが非常に恵まれていた。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月4日