「土と腸」三保製薬研究所物語(十三)
── 静柑連(静岡県柑橘協同組合連合会)時代の想い出
○農薬工場を軌道に乗せようとしている時に、静柑連にいくようになった動機は何だったんですか。
●個人的なものは全然ない。何がそうさせたかというと、当時農業全体についてかかわる人々(地方の有志というか大家)が何人かおったが、その人達が、花澤は農薬製造だけではなくもっと広い範囲のものを考えさせていいではないか、ということだったと思う。
そこで、静柑連に入った。静柑連の仕事をしていると、農会の関係、農薬、養蚕、畜産の関係等いろんなものに関係ができる。それらがともに良くなるように考えていくのが指導者として当然ではあるが大切なことだ。そういう考えでおったから、当時の農産物を生かしていけた。
──農家の人達との出会い|学んだこと
○農協などへ行って講演会をやりましたね。
●農家の方々と接触すること、それでなくては農業のことはわからなかった。細かい部落に入って多くの人と接触する。それに尽きる。経験が自分を拡大し、勉強になった。
ミカンだけでなく、あらゆるものに学問を受けた。それが何よりだ。専門がないわけではないが、ここで注意しなければならないのは、専門とは何かということだ。専門の行きようによっては、片端者ができる。
片端になったらいけない。あくまでも人間的でなければ。自分の考えというものは、終始そういうことであったと思う。
○講演会をしていろんな人達とお会いした時の思い出を。
●教えていただいた学校の校長先生に講演会の話を聞いていただいた。政雄がどんなことを話し、しようと思うのか、ひとつ聞いてみよう、そんなことだったと思う。
夜分、何も知らずに話していると、終わりころになって先生がそこにおられることがわかる…。うれしいものだよ。それで育てられた。
また西浦の久連での講演会の時だった。久連の弟のところに父が来ていることがわかって、ミカンの話を聞いてくれといって、父を会場にひっぱってきた。父はあまり満足しなかったかもしれないが、こういう機会はあまりない。夢中で話していると、父がいることすら忘れてしまう。僕としては、一代の出来事だった。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月18日