「土と腸」三保製薬研究所物語(十)
── 農薬の製造に着手
●農薬製造という仕事、これは誰がやる仕事かだ。当初はみな業者がやった。静岡でいえば、トモノとか、キタムラだ。なかには農家が直接つくる農薬もあった。一ヶ所で大量に製造して、農家に配分するという事業は業者がやった。しかし、よく考えてみると、農薬というものは業者のやるべき仕事、農家のやる仕事という区分はないはずだ。対象は農家だから、農家自身がそれを考えて行かなければいけない。
日本の農薬を考えた時、農家自身が製造しなければいけない農薬がある。例えば、石灰ボルドー液、松ヤニ合剤、除虫菊石けん液などは、農家で調整できた。そうではなくて、業者が大々的に製造しようという性質の農薬が時代と共に拡大されてきた。機械油乳剤、石灰硫黄合剤などは、その性質をもっていた。なぜかというと、農家が個々に原料を求めようとしても、量が少ないから大した効果がない。ところが、業者がやれば製造工場も建設できるし、原料等にしても大量に求められるという得意な面もある。当初は、農薬の種類にもよるけれども、概ね業者がやらなければできないような性格であった。
── 農業者の手による農薬工場
●当時は農薬製造工場というものは、僅かだった。いずれも業者だった。それが将来のためにいいかどうかということだ。それをしきりに考えたのが、僕らが主張し始めた、農業者自身の農薬製造工場だった。当時は、農業者の力もにぶい。農会という農業者の組織もあったが、納会が製造工場をもって仕事をするということは困難だった。そういう情勢を考えて、将来のために、農薬は農業者自身が作るべきものだ、業者でなければ製造できないものではないはずだ、農業者自らの手でつくるという方向に進んでいった。
こうして、日本で最初の農業者による農薬工場が、高橋の石けん工場を買収して生まれた。
○やっていく上での問題はなんでしょう。
●工場を興す資金と使用量の確保だ。それには、幸い農会があるから、説明さえすれば生産がまとまる。
当時としては、清水市(現在の静岡市清水区)に大きなエントツの立っている工場は他にはなかった。太い、黒いエントツのぼっ立っていたのはあすこだけだった。
農業者が将来を考えて、農薬についてもどういう方向に進むべきか、しっかりと目標を定めてすすめたという、この仕事は大きかった。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月18日