「土と腸」三保製薬研究所物語(四)
── 臼杵時代の想い出
● 山本男爵は農林大臣をやった人だ。百姓のことはくわしかった。寄宿していたのは、その実家であった。夏に一度会った。当時、大臣と一緒になるということは、やたらなかった。大臣は魚をとるのが好きで、網うちをする。船頭一人と大臣と僕が、三人でいく。そういう生活を夏はよくやったよ。
僕の勉強は普通より変わっているかもしれない。生活も変わっておった。山本家の家族と一緒に生活をした。奥さんが非常にいい人で、立派な人だった。大臣がいるときはには、ココ(上座)に座って、僕はすぐ隣に座る。下の方には座らせない。子供三人と女中さんが二、三人いたが、下に座る。その代わりに胡座(あぐら)はかけなかった。それが苦痛だった。ご飯を食べている最中、ずっと座りきりだ。
山本家はそのへんにある、ありふれた家じゃなかった。格式のある家庭の生活というのは経験がないから、その経験は非常によかった。広瀬で百姓をしていると、ああいう生活はちょっと考えられなかった。贅沢な生活、やりたい三昧の生活だった。
僕の住宅は、一人住まいだった。そこへ、高等女学校の生徒がよく遊びにきた。いつも数人出たり入ったりしていた。臼杵中学校がすぐ真下にあったのだが、中学生はこなかった。当時、池ノ坊の生花を勉強したり、もり花を勉強したりした。大分に教える先生がいて、日曜日ごとに来てくれた。生花だけで三年以上はやったよ。そんなにまでして勉強しなくてもいいはずだけども、当時はそれぐらいの勉強はしたものだ。
僕の住んでいた家からみると、臼杵公園がすぐそこに見える。公園だけがポッと上がっている。めずらしい公園だ。その公園が目通りのところによく見える。だから、必要があれば遊びにいける。マラソンの競争とか、一〇〇メートル競争とか、そういうことができた。臼杵中学の運動場などでも、一〇周したりした。負けず嫌いだから、競争などがあるというと、よく中学のグランドへ出掛けたものだ。二週間も練習すると、おかしなくらい速くなる。スタートなどうまいものだった。一秒の何分の一かの違いは出るから、スタートがうまくないといけない。リレーというと僕がスタートだよ。いつも。僕は物好きだから何でもやった。テニスとか、剣道、柔道、鉄棒、弓道もやった。何にでも興味を持つ。またそれがよかった。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月4日