排泄は予防の元(はじめ)
心とからだ(四)
“全く自発的に”
私達はこの「からだ」を使って、何といろいろなものを作り出してきたことでしょう。たしかにその恩恵にあずかること大ではあるのですが、しかしその反面で現代とは、自らが作り出した物質の豊かさの中で戸惑ってしまっている時代と言えるのではないでしょうか。
今日、人間による生産物をみるとそれが「生存」に必要なものかどうかをあらためて考えさせられる程に質量ともに過剰に生産されているように思えるのです。
「忘れられた思想家」とか「土臭い思想家」と言われる安藤昌益(あんどう しょうえき・一七〇三〜一七六二)という人は、食物と衣類を得るための労働を最も基本的なものとして「直耕(ちょっこう)」とか「直織(ちょくしょく)」と呼んでいます。
食べて着るということが、生存の条件であって、そのための生産労働を尊しとしたのです。
農耕社会へもどる気かと言われるかもしれませんが、もどればいいと言っているのではなくて、「生存」のための労働とは何かを「忘れている」?私達現代人に対する強い警告として知る必要があるのではないでしょうか。
「生活の貧しさ」からの解放は一方で使い切れない程の「物」を作り出したのです。
そして現代の「ベルトコンベアー作業」の中の人間の労働は全部こま切れになっているので、自分のやっていることの意味がわからない「部分品人間になってしまう」。大塚久雄さんという人はそれをさして「もう一つの貧しさ」といっているのです。
生活の貧しさに伴う心の貧しさを一つ目の貧しさとしたら、「もう一つの貧しさ」とは、物質的な豊かさを作り出した経営社会の中で、自分を見失っていることの貧しさを言っていると思うのです。
「生存」のための労働を、全く自発的に自らがする労働にしていくことでしか、心とからだの豊かさは得られない ── 二三〇年も前に生きた安藤昌益は私達にそう教えているように思うのです。(H)
第15号 1985年11月1日