排泄は予防の元(はじめ)
心とからだ(五)
“良くなるための準備をする”
治療の医学なのか、いや予防の医学が大切なのかということが言われます。どちらがというよりも、両方大切であることに違いはありません。
ただし「予防」についての理解は、まだまだではないでしょうか。そして「治療」には自立をさまたげてしまう落し穴があるように思います。
病を得て反省し、自立するきっかけになる。つまりそこから「予防」がはじまる。確かにそうなれば大変よいのですが中々そうはならず、困った時の神だのみ、良くしてもらった治してやった、そしてお世話になったの感謝で終ってしまうことが多いように思えます。
それでは予防の医学がより良く理解されるためにどのように考えたらいいのでしょうか。
私は「予防」の目的は悪くならないために、困らないためにするという程のことで考えるべきではなくて、今よりはもっともっと良くなる、そのための準備をすることにある、と考えたいのです。
それは子供達にとっての教育が、困らないためではなくて、子供達の本来持っている可能性がより良く発揮されるために、ほどこされる、ようにです。
たとえば断食療法ですが、断食の目的は体質の大改善です。言ってみれば肉体の革命です。この断食の成否は断食後の漸増食期間(食事量を段々ふやしていって従来の八分程度にする)にかかっています。
ところがその漸増食のためには断食前の漸減食(段々減らしていく)が鍵であり、その漸減食を上手にやるには、日々の腹八分の実行でしかないのです。そしてこの漸減食から、日々の腹八分が、本来の予防のあり方であると思います。
そうしますと、何のことはない、日々の生活のあり方が最も大切であるということになります。漸減食のない「革命」は失敗すると思います。そして漸減食に入るための準備である日々の養生こそ、最も大切な「至る過程」なのです。
日々の養生となれば、労働と休養の中にそれを求めなければなりません。私達は働いて、そして休養します。休養することで心身ともにより良くなりたいのです。
しかし、それは休養だけではできません。労働の中味において心身を豊かにするものがなければ本来の休養もありえないでしょう。
J・J・ルソー(1712-1778)という人は、「節制と労働、この二つこそ人間にとってのほんとうの医学だ。労働は食欲を増し、節制はそれが過度になるのをふせぐ」「かれは、農夫のように働き、哲学者のように考えなければならない」(汲田克夫著・近代保健思想史序説より)と説いています。(H)
第16号 1986年1月1日