往時雑感
清水の景色(ニ)
東海道線の清水駅と興津駅の間に袖師臨時駅があったのです。昭和三十五年(一九六〇年)頃までの話です。
── 袖師海水浴場
この駅は毎年七月一日〜八月三一日までの夏の間、袖師海水浴場に遊びに来る海水浴客の便利のため設けられたのです。臨時駅ながらも、わざわざそのために電車が止まったのです。
私鉄の路面電車の終点にもなり、バス路線にもなっていました。
遠浅の海で、砂浜も広く、海水浴客は東は冨士から西は静岡、北は山梨の方からも来ました。
臨時駅から浜までの間には、越中、海水パンツ、水中メガネを売る店、おでん屋や軽食の店、スイカを売る店、スマートボウルなどの遊戯場、浜辺には海の家が20数軒並んで、それはにぎわいでした。
── 浜がともだち
海水パンツを持って浜辺の友達の家で着替えると海まで一目散。泳ぎ疲れると広い砂浜で今度は砂遊び。腹がへれば、お店でコッペパンにジャムをたっぷりつけたのを買って口に頬張ったのです。これがうまくてうまくて。
早い時は四月にはもう水泳をしたのです。土用波の秋まで、この間は浜辺がほとんど毎日のすごし場所でした。
袖師海水浴場のある地元は横砂というところで、私はその隣の嶺、もう一つとなりが西久保で、この三つが袖師町です。
横砂の子供達は、くろんぼ大会でいつも一等賞、それにめっぽうケンカが強いやつがいて、たぶんお父さんが漁師で力も強く、子供達は手伝いをしたのでしょうか。
その子供達は浜では一番威勢がよかったのです。とにかくよく遊んで元気ものばかりでした。
私達は浜のおかげで「良く遊ばせてもらった」のです。しかし、今の袖師の子供達は「昔、そこに浜があった」ことなど想像すらできない。もうずっと前に袖師海水浴場はなくなってしまったのだから。(つづく)(H)
編集後記
▶︎「ああ、ここはすっかりもとの通りだ。木はかえって小さくなったようだ。みんなも遊んでいる。ああ、あの中に、私や私の昔の友達がいないだろうか。」
▶︎村に鉄道が通り、工場ができ、町になった。数十年がたった。
▶︎そこだけは変わらぬ虔十の杉林は立派な緑と爽やかな匂いと涼しげな木陰をもたらし「ほんとうのさいわいがなんだかを」教えるのでした。(宮沢賢治『虔十公園林』より)
第7号 1984年6月20日