ヤマモモの花粉は非常に遠くまで飛ぶとのこと、それも解る気がします。大変、巨木です。遠く中国まで飛んでいくと言われるそうです。小さい赤い実をならせて甘酸っぱい!
このヤマモモの木が、柴田長女さん宅にあるのですが、今では図書館とか公園で観られる木ですね。たぶん、柴田家でないと大木ゆえ、切り倒されてしまう、、のではと思ってしまいます。
ここだけが閑静といいますか、幹線道路が近くに迫っていますからやまももの木もここでなら守られるのではないかと思います。
下の写真は、マリーゴールド。根に線虫の防除効果があるそうで、長女さん曰く、マリーゴールドを茂らせたいと。花の色など、見た目の美しさがなかったら庭に植えられる事はない、、とその強い臭いも防虫効果になるのでしょうか、、。
花作りをやられ、その花を使って華道の指導もされた、「南画も漢詩も儂家(わがや)の余技」と、そして健康は西式、、。柴田昌年先生にあって、健康になって何をするか、、、その何をするか?を改めて教えられるように思います。
桃圃(とうほ)は、柴田昌年先生のことですが、隠逸幽香君子花と書かれています。
ひっそりと根を下ろして、かすかな香りを放つ菊は、清閑でいる花、、、と読めるのでしょうか。
読み方を柴田先生に教えていただいていれば良かったと思います。
三保製薬研究所の2階踊場は図書棚兼展示壁になっているのですが、柴田先生特集週間で、夏の朝顔から、菊の花に変わりました。
お勤めの他、も一つ生業といえるは、花づくり。そして〝お母さんたち〟には華道・花づくりを伝授されました。
柴田長女さんは、当時のその、
「花の会は、ほんとによく活動して全国でも知られたんですよ、花いっぱい運動をやって、、」
「父も力を入れて、清水の花の会は本当に発展しました」
とのことでした。
そして南画(文人画ともいう)に〝花〟を描かれて、それはまさに〝文化業〟だったのではないかと思います。
静岡市立(当時清水市立)病院が新築された当時、正面玄関から病室に向かうメイン廊下には、柴田先生の南画がずらりと展示されていました。
入院の方も訪れる人も、大いに慰められまた楽しませてもらったのだと思います。
柴田昌年先生は、庵原村(現在、静岡市清水区)のお生まれです。庵原村報復刻版(写真上)でご挨拶(写真中)をされています。
村報第一号は、柴田先生が村議会議長のとき発刊されたとあります。
その村報の復刻版完成について、その意義を語っておられるわけですが、柴田先生をそもそも村の助役にと招かれたのが、第6代村長であり当時静岡県西会会長の片平七太郎さん(写真下)で、「健康なら、私が面倒をみるから」との説得に引き受けられたわけですね。
この片平さんのところでは、満州国皇帝の薄儀の要人が報徳の教義を教授され、西式健康法は皇帝自身が西勝造先生の直接の指導を受けている(「もう一つの道」山田整骨院)そうです。
村行政の公的な文書に、柴田先生はご自分の信ずる健康法について堂々を書かれています。
「全く命がけでした。片平氏から最初に教えられたのが、朝食をやめることで、先ず朝食廃止の原理を勉強し、その日から朝食をやめ、今日まで続けており、おかげで九十才を超えることができました」と。
生半可な決心ではないこと、何事にもそれが言えること、村の将来のことに専心されたのだと思います。健康の必要を本当に自覚され実践されたのだと思います。
村の仕事は、昭和17年から終戦間近かまでされました。戦時中のことを書かれていまして、「…言論の自由は全くなく、必勝の信念としか言葉には出せない時でした。私の家の裏に照明弾が落ち、真昼より明るい光に驚く間もなく、空爆を受けるなど、戦争の末期は、さんざんでした。」とありました。
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プロフィール
- 花澤 久元
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- 誕生日:1946年11月6日
- 血液型:O型(Rh+)
- 趣味:スイマグ造り卒業、もっか青汁作り
- 自己紹介:
母親に首根っこつかまれて飲んでいたスイマグとの付き合いも早70年。
起きがけのスイマグ飲用を忘れず、青汁作りに精を出し、夕食を待ちこがれる”マイナス腸活”を楽しんでいる。