柴田昌年先生シリーズで、何を考えているかといいますと、95才という長寿を全うされて、先生、どんな生活をされたんだろう、というところをお伝えしたいと思っているわけです。それには健康も必要だろう、仕事も必要だ。それから生きる目標、くわえて趣味等の楽しみたしなみも、、。 それらが相まって、と考えるわけです。
柴田先生、よく自分の今の年齢を言われて、70才なら70才までの健康法はこうして来ました、と言われるのです。80才も同じでした。自分のやってみたことで今はこうです。やってみてのことで、これからはまだこれからです、と。これは今までを肯定しながら、だからあくまでも実際にやってみてのことを話されるんですね。
いつもにこにこしながら飄々(ひょうひょう)とされていたように思います。聞くものからすると、飄々としていますから、指導者という方には見えないのですが、導かれているなあと思うわけです。
清水区(旧清水市)内のお寺・承元寺さんは、清水の水源-興津川が大きく曲がる川向うにあります。こちらに柴田昌年先生作の石碑があります。左側写真が全体碑で、右側写真にお名前部分を拡大して掲載させて頂きました。詩碑本文は、
初めて訪(おとの)う承元寺 鬱蒼(うっそう)たり
新樹の中 鳥声遠近を分かち 山色西東を劃(かく)す
雲気苔石に生じ 渓流梵宮(ぼんきゅう)を遶(めぐ)る
老師親(みずか)ら懇ろに語る 必ずしも空々を説かず
とあります。八月の終わり、夏の日差しの木陰、柴田先生自ら揮毫の文字が読みにくく、大変申しわけないことでした。何とか、九十三(歳)という数字は判読頂けますでしょうか。
漢詩など全く無理解な私ですが、最後に柴田先生のユーモアを感じます。
柴田先生が健康法に巡り合った理由は、それは奥さんとお子さんを亡くされ、二番目の奥さんも亡くされ、弟さんを亡くされ妹さんも亡くされていた…、本当につらい思いをされながらも、家族と自分の健康を何とかしなくてはと思われたからでした。
「門前の小僧習わぬ経を読む」と供養の経を唱える毎日でした、それも通じたのでしょう、健康を皆さん維持され、お家の経済立て直しにも励まれます。
戦後(世界第二次大戦)の家の経済は
「植物をつくる他ない」(柴田長女さん)、
「全部お花」
でした、と長女さんは言われます。
「自分の家で、いっぱい花を植え、夜、華道を教えに行った。華道は東京の家元(安達流)のところまで行って習った」「全てお花に関すること それと西式ですね」
玄関の目の前には、梛の木(暖地に自生する、まき科の常緑高木。 仏教徒の守護神で、阿弥陀如来の化身とされた)が三本あります。玄関に覆いかぶさるくらいの大きさです。
「植物をつくる他ない」という柴田先生のお家だからこそ、現存しなお人の歩みを見守ってくれている、そんな気がしてなりません。
「父は、『あんたの体のことは、わしが面倒みるから』と言われたそうです」
柴田長女さんが語る、父柴田昌年先生のことです。前回のブログで、柴田昌年先生は健康は「西式健康法」と書きましたが、どういう御縁だったのでしょう。
実は柴田先生、本当に悲しいことにお連れ合いそしてお身内を、それも続けて何人も亡くされているのです。
柴田長女さんは、柴田先生の2番目の奥さんの子。そしてこのお母さんは柴田長女さん2歳のときに亡くなってしまわれます。柴田先生と柴田長女さんは3月に、お母様でありお婆さまを亡くされ、今度はお連れ合いでお母さんである方を同じ年の6月に亡くされるという悲しいできごとでした。
柴田先生の最初の奥さんという方は、柴田長女さんのお母さんのお姉さんという方でした。柴田先生最初の奥さんは、子供をおなかにしたまま亡くなっていらっしゃるのです。
お身内にあっては、柴田先生の弟さんが、華道をやる方だったのですが、20代で亡くなっているのです。妹さんは5歳で亡くなっています。
前回に、健康は西式、仏教学/植物学/書画は趣味の領域と書きました。お経のことは書きませんでしたが、〝門前の小僧〟で小さい頃から唱えられたということです。
先生ご自身で、上の写真にあるように『仏説阿弥陀経』を写経されて唱えられていたようです。強い意思を持って、供養の経を唱えられるほどに、健康法も強い信念で実践されたことは想像出来ます。
そして、片平七太郎さん(当時静岡県西会会長)から、「あんたの体のことは、わしが面倒みるから」と言って頂いて以来、
「父は、それ以来、朝食は一度としたことのない2食生活をしました」
ということです。柴田先生は、お父さん(皇甫先生、経を毎日唱えられる方でした)にも健康法をすすめられているのです。息子に勧められればすすんでするお父さんもさることながら、家族の健康について非常な責任を持って望まれていたのだと思います。最愛の人たちの死から、先生95歳で亡くなられるまで生き切った人生に、限りない尊敬の念を覚えずにはいられません。
しかし、門前の小僧習わぬ経を読む、の例えにあるようにそれは経を読むことだけでなく、健康法についてもその他生活に、柴田先生の働きかけによって醸し出された〝場〟があったように思えてくるのです。
この写真にある方々、皆さんをご紹介できないのですが、
二列目正面が西勝造先生(西式健康法創始者)で、その右隣りが片平七太郎さんです。柴田先生は、西先生の、向かって斜め右二人目の立っている方です。当時40歳でした。
実は、三保製薬研究所創業者の花澤政雄は片平さんの、向かって斜め左側二人目で立っております。
全国で講演活動をされていた西先生は、清水にも立ち寄って頂いたのですが、その折の関係者・指導者の方々が写っております。私も存じ上げる方もおられて、大変懐かしい写真です。この写真は、昭和19年ですから戦前のことですが、敗戦後も長らく、それこそ全国に燎原の火のごとく広まったのが西式健康法でした。
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プロフィール
- 花澤 久元
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- 誕生日:1946年11月6日
- 血液型:O型(Rh+)
- 趣味:スイマグ造り卒業、もっか青汁作り
- 自己紹介:
母親に首根っこつかまれて飲んでいたスイマグとの付き合いも早70年。
起きがけのスイマグ飲用を忘れず、青汁作りに精を出し、夕食を待ちこがれる”マイナス腸活”を楽しんでいる。